『潮騒』

俺は海が嫌いになった筈だった。
それは親父とお袋を殺された場所だからだ。
しかし、入院していた病院から退院し、南部博士に引き取られた別荘の近くには海があった。
最初の内はキラキラしている海を見るのが辛かったんだ……。
俺は僅かに8歳。
今の甚平よりも小さかったんだから仕方がねぇかもしれねぇな。
でも、別荘のテラスにいると、時々潮騒が聞こえた。
そして、潮の匂いがする事もあった。
ある時テレサ婆さんが言ったんだ。
「坊や、私と一緒に海を見に行きましょうか?」と。
俺はテレサ婆さんには心を開きつつあった。
周りの大人は皆俺の事を親を眼の前で殺された可哀想な子供と見ていたが、テレサ婆さんにはそれだけではない何か暖かい…、そう、母親と言うか俺の記憶にはない『祖母』の匂いがしたんだ。
テレサ婆さんの俺の呼び方には変遷があった。
最初は『坊や』、健が来た辺りからは『ジョー君』、そして…いつの間にか、いや、俺が博士から独立した頃からは『ジョーさん』と呼んでくれるようになったっけ。
テレサ婆さんは初めて逢った時、既に70歳。
俺の祖父母が生きていたとしても、もっと若かっただろうと思う。
だが、何だか懐かしい感じがあったんだよな……。

俺は海が嫌いだった筈なんだ。
でも、気付いたらテレサ婆さんの誘いに乗っていた。
丁度買物に行く為に外出する処だったらしい。
別荘の男の従業員が車を出した。
テレサ婆さんはその男に言い含めてあったらしく、黙って車は海へと進路を取っていた。
そして、車から降りる時も黙ってその中で待っていてくれた。
俺はテレサ婆さんが転ばないかと心配になり、車から降りる時に手を貸していた。
「まあ、坊や。8歳にして既に紳士ね」
テレサ婆さんが嬉しそうに笑ってくれたのを覚えてる。
海には誰もいなかった。
ただ静かに波打ち、キラキラと輝いていた。
俺は脚が竦んで一歩も先に進めなくなった。
あの時の記憶はまだ生々しい。
だが、父親の手から拳銃を取って女暗殺者に向かって歩いて行った処まででその記憶は途切れていた。
自分の身体が何かに吹き飛ばされたような記憶だけが微かに残っている。
その記憶がぶわっと一気に甦り、俺の眼には涙が浮かんでいた。
身体が震えて力が抜け、膝を付いた。
身体の傷は漸く癒えたが、心の傷はまだ癒えていなかった。
海をそれ以上見続けるのが怖かった。

その時、テレサ婆さんが「坊や、大丈夫?」と優しく声を掛けて、俺の全身を包み込むように抱き締めてくれた。
その温もりは一生忘れねぇだろう。
テレサ婆さんに抱き締められた瞬間、あんなに聴きたくなかった潮騒の音が突然耳にすんなりと入って来た。
意外と心地好い音だって事にその時気付いたんだ。
気付いたと言うよりは思い出したと言うべきかもしれねぇな……。
「坊や。海って言うのはね。世界中のどこにでも繋がっているのよ。
 あの向こうには大きな大陸があるの」
「俺の故郷もそこにあるの?」
「今の坊やの故郷はこのユートランドよ。南部博士がいるでしょう?
 それに、みんな坊やの事を心配しているのよ。
 坊やと仲良くなりたい人達が此処には一杯いるの。
 さっき車を運転して送ってくれたお兄さんだって、坊やと仲良しになりたいのよ」
「俺…、大人が怖いんだ。博士とテレサ婆さん以外の他の大人の人全部。
 男の人も女の人もみんな怖い!俺の親を殺したのは女だったもの!」
俺はテレサ婆さんに甘えていたのだろうか?
自分だってやがてはその『大人』になると言うのに……。
8歳の俺をテレサ婆さんは涙を流し、慈しみを持って強く抱き締めてくれた。
その時、テレサ婆さんの肩越しに海の輝きが見えた。
素直に綺麗だな、と思ったんだ……。
気が付けば潮騒も海の煌きも俺は克服していた。

あの時の記憶が残っていたからなんだろうか?
テレサ婆さんが別荘を去る事になった時、俺は小さくなったテレサ婆さんを腰を屈めて抱き締めた。
俺が185cmにまで伸びちまったのもあるが、テレサ婆さんが小さくなったのはそれだけのせいじゃねぇだろう。
年を取ったんだ……。
俺はテレサ婆さんを抱き締めた後、頬に優しくキスをした。

……何であの時の事なんか夢で見たのかな?
テレサ婆さんと海を見た時の夢から別れの時の夢へと何時の間にか移り変わっていて、俺は激しい頭痛で睡眠を妨げられた。
俺の身体は確実に変調を来たしている。
もしかしたら、テレサ婆さんとはあの時が今生の別れだったのだろうか。
俺は多分もうそんなに長くは生きられないだろう。
俺が本来生きる筈だった寿命をテレサ婆さんに分けてやりてぇ。
どうか長生きしてくれよ。
長い間苦労を掛けた俺には、そんな餞(はなむけ)の言葉しか贈れねぇ。
俺が死んだら哀しむだろう、って事だけが心残りさ。
いつまでも、幸せに……。
大好きなテレサ婆さん。




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