『格別な海』

ジョーはまた此処に来ていた。
思い出の海、心を洗ってくれるあの海に……。
彼にとって特別な場所になったのは、もう10年も前の事だ。
最初に連れて来てくれたのはテレサ婆さんだった。
(テレサ婆さん、元気かな?帰りにちょっと寄って行くか?)
ジョーが心で呟いた時、
「ジョーさん!」
と聞き慣れた優しい声が聞こえた。
まるでジョーが呼んだかのようなタイミングだった。
振り返るとその場に杖をついて砂浜に足を取られながら歩く、足取りも覚束ないテレサ婆さんの姿があった。
「テレサ婆さん、危ない!俺が行きますから、そこに留まっていて下さい」
ジョーは急いで走った。
買物の帰りに、ちょっと海を眺めようと車を回して貰ったテレサ婆さんが見慣れた車を見つけたのである。
眼も余り良くは見えないのだが、運転をしている別荘の職員に訊くと、「ああ、あれは間違いなくジョーさんの車ですね」と言ったので、テレサは思わず車を降りて砂浜に足を取られながら歩いて来たのだった。
「テレサ婆さん、これから逢いに行こうと思っていたのに…」
「だってジョーさんがそこにいたのですもの……」
テレサははぁはぁと荒い呼吸(いき)をしてジョーを見上げた。
ジョーはテレサ婆さんを軽々と抱き上げた。
「転んだら大変ですよ。俺が海岸線まで連れて行って上げますよ」
ジョーは運転手にテレサは自分が連れて帰るので先に帰っていて下さい、と告げた。
「ジョーさん、本当に大きくなったのね。私は重いでしょう?」
テレサ婆さんが涙した。
「まさか!軽くて驚いているのが本当の処ですよ」
ジョーは涼しげな顔で優しくテレサを見下ろした。
「テレサ婆さんと見るこの海はまた格別ですよ。此処で逢えて良かった」
「ジョーさん、何かあったの?」
ジョーは海岸線まで来たので、テレサを下ろし、左腕でしっかりとその身体を支えた。
「いえ。何も無くても此処には良く来ますよ」
本当は悩み事があった。
それを誰にも告げる事は出来なかった。
自分がギャラクターの子である事を知ってからは、此処に来る頻度は高くなっていた。
夕焼け空になるまでぽつねんとしている事もある。
「テレサ婆さんが初めて連れて来てくれた場所ですからね。
 俺にとってはいつまで経っても特別な場所なんです」
「あら、嬉しい事を言ってくれるのね。こんな老いぼれに……」
「駄目ですよ、自分で老いぼれなんて言っては。
 テレサ婆さんは俺に子供が出来てその子供が結婚する位まで長生きして貰わなくちゃ」
「まあ、100歳を超えるまで生きろって事かしら?」
「そうですよ」
ジョーは涼しい顔をして言ってのけた。
「いくら何でもそこまでは無理だと思うけど……。
 でも、ジョーさんに結婚する気があったとは知らなかったわ」
「今はまだ解りません。まだこれでも18ですよ?
 相手が居る訳でもありませんからね。
 でも、もしそんな未来があるなら、テレサ婆さんに『ひ孫』を見せたいものです」
「まあ、そんな嬉しい事があったら、それを希望として長生き出来そうね。
 私は足腰が覚束なくなって来たのよ。
 もう80ですからね」
「無理をし過ぎなんじゃないですか?いつでも引退出来る身なのに……」
ジョーが心配そうに腰を屈めてテレサの顔を覗き込んだ。
長年の苦労と経験が皺となって刻み込まれている。
「ジョーさん。今、仕事がある事はとても有難い事なの。
 こうしてたまには貴方にも逢えるわ。
 辞めてしまったら貴方に逢える途(みち)も途絶えてしまいそうで……」
「そうなった時には俺の方から逢いに行きますよ。
 娘さんのお婿さんはそう言うのが駄目な人なんですか?」
「そんな事はないのよ。でもね。あの場所には小さい頃からのあなたの思い出が……」
テレサが突然大粒の涙を零したので、ジョーは慌て、驚いた。
「テレサ婆さん……」
ジョーは腰を屈めてテレサを優しく抱き締めた。
愛しいと思える人がいると言う事が、こんなに精神を充実させてくれるものだとは彼は知らなかった。
「俺はどこにも行きませんよ。テレサ婆さんが嫌だと言っても付き纏います。
 貴女は俺にとっては唯一無二の人なんですよ。
 みんなに唯一の『ステディな女友達』って言われているんですから」
「あら?私が?」
「そうですよ」
ジョーのテレサ婆さんを見つめる瞳は真っ直ぐで暖かく、そして優しかった。
ハンカチを取り出して、テレサの頬の涙をそっと拭いてやった。
「そんなんじゃ駄目ね」
えっ?と思うような言葉がテレサ婆さんの口から飛び出た。
「早く『本当のステディな女友達』を見つけなさいな。
 あなたならきっと相応しい女の子が居る筈よ。
 私のような婆さんを冗談でも『ステディ』なんて言っては行けないわ」
「解りましたよ。今はレースの事で頭が一杯ですが、ひと段落したら、恋愛についても考えてみますよ」
「ジョーさん、貴方は気付いていないかもしれないけれど、案外モテるのよ」
「周りにはそう言われるんですが、余り実感はないですね」
「そう言うつもりになって周りの女の人を見ればすぐに解るわ。
 貴方は勘がいいから、本当は解っているのでしょ?」
テレサ婆さんがにっこりと笑った。
優しい笑顔だった。
祖父母の味を知らないジョーにとっては、テレサは本当の祖母のような存在だった。
「今、貴方にはしなければならない事があるのは、何となく解っているわ。
 それが片付いたら、普通の18歳として暮らせたらいいわね。
 私はそれを毎日神様に祈っているのよ…」
何もかも見透かしているようなテレサの言葉だった。
ジョーは一瞬言葉を失った。
もしかしたら…、この人は自分の正体を薄々感じ取っているのかもしれない。
南部博士が科学忍者隊と言う少年の戦闘組織を指揮している事は知っている筈だ。
「いつか…そんな日が来て、恋人と呼べる女性が出来たら……。
 きっとテレサ婆さんに最初に紹介しますよ。
 俺には紹介すべき両親は居ませんからね」
「南部博士にもちゃんと紹介しなきゃ駄目よ。父親代わりとしてね」
「解りましたよ」
ジョーは優しく答えて、テレサ婆さんの頬にキスをした。
こんなに優しい声で受け答え出来るのはこのテレサ婆さんしかいない。
彼をただの乱暴者だと思っている者は多いが、真実は決してそうではないのだ。
その時ブレスレットが鳴った。
南部博士からだった。
ジョーは先手を打って、博士に『G−2号』と呼ばせないように、「こちらジョーです」と答えた。
『ジョー、悪いが、国際科学技術庁まで送ってくれないかね?』
「解りました。今、丁度テレサ婆さんを別荘に送って行く処です」
『そうらしいな。では頼んだぞ』
博士は職員が1人で帰ったので、テレサがジョーと一緒に居ると言う事情を知っていたのだ。
「あ〜あ、折角テレサ婆さんとのんびりしたかったのに……」
ジョーは思い切り長い手足で伸びをした。
Tシャツが捲り上がり、鍛え上げられた腹部が少し露出した。
「ふふ。本当に大きくなって……。
 丁度良かったわ。私もそろそろ帰って仕込みをしなければならないもの」
テレサが慈愛を込めた眼でジョーを見た。
「じゃあ、行きましょうか?」
ジョーは再びテレサ婆さんを軽く抱き上げて、砂浜をじっくりと踏み締めて歩いた。
またこんな日がある事を願い乍ら……。
ジョーの足跡が点々と砂浜に刻まれて行った。
陽はまだ高かった。
彼は目的としていた夕陽を見る事は出来なかったが、テレサ婆さんと逢えた事でそれ以上の心の安らぎを得た。
彼の背中の向こうにはキラキラと彼の格別な海が輝いていた。




inserted by FC2 system