『記憶』
『スナックジュン』のカウンターにはジョー1人が座っていた。
ジュンは買い出しの為に外出している。
「ジョーの兄貴は両親の記憶があって羨ましいな……」
甚平がカウンターの中で俯いた。
「どうした?また親が恋しくなったのか?」
ジョーが長い腕を伸ばして甚平の髪をくしゅっと掻き回した。
「だがよ、記憶があればいいってもんじゃねぇ。
俺の場合は禍々しい記憶だからな。
そんなもんなら無い方がマシだと思った事は何度もあるぜ」
「それでもパパとママの顔を覚えているんだろ?
おいらにはその記憶さえないんだ……」
ジョーは甚平の気持ちが解らぬではなかった。
まだまだ両親が恋しい年頃だった。
自分が甚平ぐらいの年の頃を思い出してみると、強がっていたが、実際は寂しくて溜まらなかった事を思い出す。
その頃に健が博士の所に常住するようになったが、それでも寂しさは拭い切れなかった。
なかなか健には心を開く事が出来なかったのだ。
何時の間に心の鍵を健に開かれたのかは定かではない。
「そうだな…。
でも、俺も何もかも失ってBC島を抜け出した。
南部博士に助けられてな。
だから、写真1枚手元に残っていねぇんだ。
記憶と言うものは段々薄れて行くものでな。
最近は夢に両親が出て来てもはっきりとした顔が出て来ないんだ。
顔だけぼやけている」
「そうなの?」
甚平が小首を傾げた。
「幼い頃の記憶って物は消えやすいらしい」
「ふ〜ん……。親みたいな特別な人でも?」
「俺の場合は恐ろしい記憶を自然に消そうとしてしまった、と言うのもあるらしいがな。
当時は博士が心理カウンセラーをつけてくれたぐらいだ。
親の記憶が確かにあったのに消えてしまうと言うのは、それはそれで哀しいもんだぜ。
俺は何も記憶のないおめぇが逆に羨ましい。
つまりはお互いに無い物ねだりをしているだけだって事だぜ。
俺の言っている事が解るだろ?甚平……」
ジョーはエスプレッソを啜って、持って来た新聞に眼を下ろした。
「甚平。ジュンが買物から帰って来たら気分転換にカート場にでも行くか?
健から甚平が車に乗りたがっているって聞いたぜ」
「え?ホント?おいらも乗れるの?」
「子供でも大丈夫さ。
俺が初めて南部博士に何かをせがんだのも、カートに乗る事だった。
忙しい中、博士が喜んで連れて行ってくれたさ。
身体の傷は癒えたがまだ心を閉ざしていた時期だったんでな」
「そこでジョーはレーサーとしての才能を見せたって博士が言ってたよ」
「甚平は何になりたいんだ?
スポーツカーに憧れているのとレーサーを目指すのとはまた別物だからな」
ジョーはまたエスプレッソの香りを楽しんだ。
イタリア人はエスプレッソが好きだ。
「まだ何になりたいかは朧げにも解らないんだよね」
「その年なら焦る事はねぇさ。
その内必ず何かが見えて来る筈だ」
母国語の新聞に眼を落としながら、ジョーは優しい声で言った。
「お姉ちゃんが行かせてくれるかな〜?
今日は駄目だって言われそうだよ」
甚平の屈託はそこにあった。
「予約客でもあるのか?」
「うん。実はそうなんだ……」
「じゃあ、出来るだけ早い日程を取っておけ。
今度の日曜は俺はレースだから駄目だぜ」
「解った。お姉ちゃんに訊いておくよ」
甚平の眼が輝いた。
「レースって朝のレース?
だったらみんなで応援に行けるね。
今度の日曜はみんな休暇だぜ。
夕方からお店は開けるけどね」
「休暇は自分の為に使うもんだ。
わざわざ休暇の日までみんなで俺のレースなんか見に来る必要はねぇ。
自分の為に時間を使えよ。
俺にとってはレースに出場する事が、自分の為に時間を使っている事になるんだからな」
「おいら、まだ『時間の使い方』が良く解らないや」
「まあ、休日の過ごし方はジュンと相談しろや。
2人で遊園地に行ったりする事もあるんだろ?」
「うん」
ジョーは新聞を折り畳んだ。
「まあ、その話はいいから、カート場に行く日程はそっちで決めろ。
ジュンが帰って来たぜ」
「あ、本当だ。ちゃんとアレとアレを仕入れて来てくれたかなぁ?」
「まあ、頑張れや!急な任務が入らねぇように祈っていてやる。
じゃあ、またな。代金は此処に置いとくぜ」
ジョーはそれを潮に立ち上がった。
これから準備で忙しいだろう、と言う配慮からだった。
「あら、ジョー。もう帰るの?」
紙袋を抱えて入って来たジュンが訊いた。
ジョーはその荷物を受け取ってカウンターに置いてやる。
「ジョーの兄貴はおいら達に遠慮してるのさ。
これから忙しくなるだろう、ってさ」
甚平はジョーの心理を読んでいた。
ガキの癖になかなかなもんだな、とジョーは思った。