『雨のサーキット』

サーキットには冷たい雨が降っていた。
雨が降るとジョーは決まって場内のレストランにやって来て、エスプレッソを飲む。
一時期共にコーヒーを飲んだマリーンはもういない。
何とも寂寥感が彼の心を締め付ける。
それよりも最近の体調不良が胸の内を暗くしていた。
「ジョー、隣、いいかい?」
顔を見なくても解る。
フランツだ。
「ええ…」
ジョーは振り向かずにそう言った。
「この頃、お前の走りを観ていて思うんだが、前よりもキレが良くなった気がする。
 だが、それは何かに追われているような印象を受けるんだ。
 ……一体何があった?」
フランツはジョーの事を心配していた。
顔色が悪いのも承知していたが、彼は真正面から訊いても答えないだろう。
だからわざわざ本題から回り込んで話をした。
「何があったと言う訳でもない。
 ちょっと疲れているだけだと思うぜ」
ジョーはフランツにはタメ口だった。
年齢はフランツの方が倍近く上だが、実力では数倍もジョーの方が上だった。
「マリーンの事か?」
「それもあるかもしれねぇ……」
ジョーはポツリと答えた。
「他の娘(こ)と恋をする以外に克服する方法はなさそうだな」
「恋ですって!?」
今の自分に恋など考える余裕すらない。
自分の出自を知って彼はうろたえたし、心が掻き乱され、混乱した。
恋どころではない。
最近の体調不良もあって、ギャラクターを斃す事だけに闘志を燃やしている。
気持ちの整理がつかなくなると、サーキットに走りにやって来た。
キレが良いと言われただけマシかもしれねぇ、とジョーは思い直した。
こんな状態で走りも衰えていると言われたら立つ瀬がなかった。
「何かに追われている、か…。
 そうなのかもしれねぇ。
 自分にも正体が解らねぇ何かに……」
ジョーは焦りを露わにした。
フランツの前では何故か素直になれた。
「まあ、人にはいろいろな事情があるからな。
 俺は深くは訊かないよ。
 でも、話す気になったらいつでも逢いに来てくれ」
「仕事が忙しいんでしょう?」
「まあな。俺も仕事の憂さを此処に晴らしに来ているんだ。
 お前と同じだよ」
ジョーが晴らしたいのは憂さだけではない。
焦りも体調不良も全て綺麗さっぱり拭い去りたい。
だから、此処で飛ばす。
だが、気分が晴れるのは走っている時だけだ。
うじうじするのは自分らしくねぇ、と思いつつ、ただギャラクターへの憎しみをどんどん募らせる。
そして、そんな自分にイライラする。
身体の不調がそのイライラ感をMAXにさせた。
羽根手裏剣を投げて花瓶を割ってしまった夜もある。
こんな雨の日はサーキットに来ても気分が晴れない。
帰ろうか、と伝票に手をやる。
その時、左手首のブレスレットが鳴った。
此処で答える訳には行かない。
ジョーはスイッチを切って、立ち上がった。
「用事が出来たんで、今日は帰るぜ」
「そうか。気をつけてな」
「え?」
「雨でスリップしないように、って事さ。
 ジョーならそんな心配もないだろうが」
フランツはそう言ったが、本心は違う。
ジョーの本当の任務に気付いているからこその台詞だった。
顔色の悪さから、体調が良くない事は解っていた。
それが継続的なものなのかどうかまではフランツには解らなかったが、此処数回逢ったジョーはいつも蒼白い顔をしていたように思う。
「ありがとよ。じゃあな」
ジョーは手を挙げ、会計へと走って行った。
フランツはその後ろ姿を見て、何となく不安になった。
嫌な予感が彼の脳裡を過(よ)ぎる。
まさか…。
この瞬間がジョーを見た最後の瞬間になるとは、フランツは勿論、ジョー自身も思ってはいない。
サーキットの控えに身体をブルッと震わせながら傘も差さずに愛機に乗り込もうとしているジョーが見えた。
その姿が一瞬揺らいで、透明になったように見えた。
フランツは不吉な予感を確かなものにした。
その思いを頭を振って、消し去ろうとした。
不吉な思いは布に染み込むコーヒーのように、どんどん黒く拡がって行く。
(ジョー、くれぐれも気をつけてくれ。
 君はまだ若いんだ…)
走り去るG−2号機をレストランから眺めながら、フランツは瞑目した。




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