『下準備』

「何やってんだ?甚平」
「見れば解るでしょ?」
甚平はカウンターの中で、ケーキ型と格闘していた。
「お姉ちゃんでも作れるクリスマスケーキを今から考えて仕込んでおかないとね」
甚平は汗を掻き掻き、一生懸命に生クリームを塗っていた。
「クリスマスだって!?まだ1ヶ月以上もあるじゃねぇか?」
「今から仕込んでおかないと、お姉ちゃんじゃ間に合わないよ」
甚平の言葉にジョーは心から笑った。
「全くその通りだな、甚平」
ジョーはそのまま踵を返した。
「ジョーの兄貴、何で帰っちゃうの?」
「シェフが忙しそうだからさ」
「お客さんほったらかしでこんな事をしてたら、怒られちゃうよ」
甚平は作業を中断し、手を洗った。
「コーヒー?それとも何か作る?」
「そうだな。まずはエスプレッソを頼むぜ」
「ジョーの兄貴は本当に食べないね〜。
 もうちょっとは太った方がいいって博士に言われてるんだろ?
 この間、自然気胸とか言うのになったし。
 あれは背が高くて痩せている若い男の人がなりやすいって博士が言ってたよ。
 再発する可能性だってあるって言うじゃんか」
「それを言うなら、健だっておめぇだって危険度は同じさ」
「おいらはまだ子供だからなぁ」
「子供子供と言ったって、もう10代だぜ。
 俺はおめぇの歳の時にはもうカートに出逢ってた。
 博士の処からの独立を視野に入れてたぜ」
甚平が淹れたエスプレッソの香りが鼻を擽った。
「ジョーの兄貴は独立心が特別強かった、って博士が言ってた。
 兄貴より先に出て行ったんだって?」
「健よりも早くから博士には世話になっていたからな。
 健にはお袋さんがまだいたしな」
「兄貴ってさ。マザコンになりそうなのに、ファザコンだよね」
甚平が顔を上げた。
「そりゃあ、4歳で別れたし、最後は親子の名乗りを上げた直後のあの別れだ。
 仕方がねぇと思うぜ。
 もうその話はやめよう」
ジョーは小脇に抱えていた自国語の新聞を広げて、甚平が出したエスプレッソの香りを楽しんだ。
「で?その、ジュンにも作れそうなクリスマスケーキの試作品は完成しそうなのか?」
「う〜ん、まだお姉ちゃんには難しそう。
 おいらが手伝っちゃ意味がないしね」
「健へのクリスマスプレゼントか…。それならそうだな」
「もう、お姉ちゃんが帰って来そうだし、早く完成させなくちゃ。
 勿体無いからお店に出さなくちゃね」
「甚平もご苦労なこったな」
ジョーは心底気の毒そうな顔をした。
「そんな事ないよ。おいら結構楽しんでやってるから。
 ジョーが心配してくれる程の事はないんだ」
「そうか…」
ジョーは新聞から眼を上げて、甚平の頭をぐしゃぐしゃに掻き回した。
「おめぇはいい弟だよ。ジュンは幸せ者だ」
「本当の姉弟(きょうだい)だったら良かったのにな」
「俺から見たら、本当の姉弟と変わりはねぇさ。
 俺には兄弟は居なかったからな。
 いい関係に見えるぜ」
「兄貴とは兄弟にはなれなかった?」
「友達にはなれても、兄弟にはなれねぇだろ?
 同い年だしな」
ジョーは不思議そうな顔で甚平を見た。
健と兄弟…。
考えた事もない。
確かに幼い頃から一緒にいたが……。
「やっぱり健は同級生、って感じだな」
ジョーは宙を見上げながら、呟いた。
「さてと、ケーキが出来たよ」
甚平は綺麗に生クリームが波打っている上級テクニックを使っていそうなケーキをジョーの前に出した。
フルーツもふんだんに載せてある。
「おいおい、これじゃあ、ジュンには絶対に無理だろうよ。
 おめぇ、少し自分のレベルを下げる練習をしなきゃ駄目だろ?」
「そうなの?」
「相手のレベルに一旦下りてみる。
 物事を教える時には、そう言った気配りが必要だ」
「それがジョーの兄貴に出来るとは思えないんだけど」
「………………………………………。
 確かに、図星だ…」
ジョーはそれきり口を噤んだ。
ジュンが健と竜を伴って入って来た。
「ガレージで一緒になったのよ」
「わお、旨そうなケーキじゃわい!」
竜が眼を輝かせた。
「竜、おめぇは間違っても食い過ぎるんじゃねぇぞ!」
そう言ってジョーは小銭をカウンターに置いて立ち上がった。
「ジョー、もう帰るの?もうちょっと居てもいいじゃない?
 折角のケーキ、食べて行ったら?」
ジュンが振り返った。
「残念乍らISOに博士を迎えに行く時間だ」
「ケーキを喰ってからでもいいんでねぇの?」
竜は今すぐにでも食べたそうな顔をして言った。
「俺は甘い物は苦手なんだ。知ってるだろ?
 それに博士を待たせる訳にも行かんだろう。
 こっちが待つ事はあってもな」
確かにそうだった。
博士を必要以上にISOに釘付けにしておく事は出来ない。
多忙な人なのだ。
それを普段から護衛兼運転手として、そして、小さい頃から見て来たジョーは良く知っていた。
「博士は別荘に戻るのか?」
健が訊いた。
「いや、三日月基地だそうだ。
 何か調べ物があるらしいぜ。
 博士は一体いつ寝ているのやら?」
その言葉にはジョーの心配が篭っていた。
「博士だって見掛けはスタイリッシュで若いが、もう50近いんだからな。
 余り無理は利かなくなって来るんじゃねぇのか?
 御用繁多過ぎるんだよ。
 それだけISOの奴らが南部博士に頼り過ぎだ、って事さ」
日系イタリア人のジョーが『御用繁多』などと言う言葉を使った事が健には意外だったが、実はジョーがいろいろと言葉について苦心している事は知っていた。
博士と会話をしている内に高度な日本語もマスターして行ったのだろう。
「ジョー、全くご苦労だな。
 疲れている時は俺達に言えよ。
 いつでも代わるからな」
「ああ?俺がそんなに軟な奴に見えるか?」
「そう見えると言ってる訳じゃない」
「解ったよ。その時は遠慮なく言うから頼むぜ。
 じゃあな」
ジョーは店を出て行き掛けて、再び振り向いた。
「竜、おめぇは間違っても食い過ぎるんじゃねぇぞ!」
もう1回、先程と同じ事を言って、今度は本当に店を出て行った。




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