『海辺』

ジョーは博士を迎えに行く前に、博士の別荘の近くにある海で引いては寄せる波を眺めていた。
少し早く来過ぎたのだ。
晴れた日中の海は何だか明るい。
波のさわさわとした音も、子供達の歓声に遮られる。
それでも、平日の日中、遊びに来ている親子連れはそれ程多くなかった。
ジョーはあの日の海岸を思い出す。
自分もああして、海辺で遊んでいたっけ。
両親はビーチパラソルの下で何か会話をしていた。
何かを待っていたのだろうか?
今となっては、ジョーには何も知る事が出来ない。
昼間の海は彼の頭に銃声を響かせる。
「パパ〜っ!ママ〜っ!」
あの時の記憶がフラッシュパックのように甦る。
潮騒が嫌いだった。
でも、小さい頃にそれを克服させてくれたのが、テレサ婆さんだった。
テレサはもう別荘を退職した。
あれからまだそう経ってはいないのだが、テレサがいなくなってからと言うもの、再び昼間の海の波打ち際は、彼にとっておぞましい記憶を甦らせる事となった。
自身の出自を思い出した事とも関係しているのだろう。
夕陽を眺める事は良くある。
いつもの特別な丘から、特別な海から。
夕陽が海に反映しているのは平気なのだ。
故郷の美しい夕陽に通じているから。
でも、日中の海は……。
両親の死と直結していた。
ジョーは突然胸苦しさに襲われた。
(俺は全くあの時の事を克服出来ていねぇ。
 光は克服出来たが、余計な苦しみを味わう事になっちまった。
 いや、この記憶はずっと以前からフラッシュバックのように俺の脳裡に焼き付いて、時々出て来やがる)
トラウマに苦しめられた10年だった。
10年は長い。
特に彼のようにまだ若い世代にとっては。
8歳から18歳に成長した彼は、未だにその時の記憶に苦しんでいたのだ。
「時間潰しに海辺に来たのが間違いだったな」
ジョーは公用車を道に置き、此処まで歩いて来ていた。
ゆっくりと海に背を向けて、歩き出す。
その時、テレサ婆さんの声を聴いたような気がした。
振り返ってみるが、海にはその姿はない。
『今の坊やの故郷はこのユートランドよ。南部博士がいるでしょう?
 それに、みんな坊やの事を心配しているのよ。
 坊やと仲良くなりたい人達が此処には一杯いるの』
テレサの慈愛に満ちた声が彼を包んだ。
(あの時、優しく抱き締めてくれたっけな……)
それから自分の祖母のようにテレサを慕って来た。
しかし、寄る年波に耐えられず、ついに先日テレサは別荘の賄いを辞去したのだ。
別荘に博士を送迎する時も、もうテレサの笑顔は見られない。
どうにも寂しいものだった。
彼女が引き取られた娘夫婦の家に顔を出せば逢えるのだが、最近、体調が良くないので控えている。
テレサ婆さんに心配は掛けたくなかった。
体調が良くなったら逢いに行こうと思ってはいるのだが、なかなかその機を掴めないでいる。
例え幻聴であっても、テレサの声を聴いた事で、テレサとの思い出の海辺を少しだけ愛おしく思える事が出来た。
沈み込みそうだった気持ちを立て直す事が出来たのだ。
これで博士を迎えに行っても、訝しがられる事はあるまい。
公用車に戻ると、ジョーはもう1度思い出の海辺を振り返った。
「テレサ婆さん、まだまだ元気でいてくれよ」
また逢える日を強く願った。
その日が来ない事をジョーはまだ知らなかった。
あの退職の日が今生の別れになるとは、思いもよらなかったのだ。
その場にいた誰しもがそうだった筈だ。
ジョー本人ですらそうだったのだから。
テレサだけは自分が逝く事はある程度考えていたかもしれないが、ジョーが先に逝く事になるなど、考えもしなかったに違いない。
その日はもう遠くはなかった。
ジョーは海底1万メートルでのマリンサタン号の任務の頃から何となく体調が優れない事を感じていた。
まだ具体的な症状は出ていなかったが、疲れているのかと思っていた。
まさか、自分の身体に病いが巣食っていようとは、この時はまだ思いもしていない。
公用車の前で靴を脱いで、中に入った砂を零した。
テレサとの思い出がまた1つ甦る。
あの時、テレサ婆さんがジョーの靴を脱がせて、こうしてくれたものだ。
今は1人。
もう小さな子供じゃない。
でも、テレサの温かい手が懐かしかった。
別荘に行けば逢えた今までとは違う。
早くこの疲れを癒して、テレサ婆さんに逢いに行こう。
そして、G−2号機でこの海辺へ連れて来よう。
ジョーはそう決意して、博士の公用車へと乗り込んだ。


※テレサ婆さんと海に行ったシーンは、152◆『潮騒』で描いています。
※テレサ婆さんの退職の日の話は、063◆『最後の口付け』に収録しています。




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