『エスプレッソの香り』

甚平が淹れるエスプレッソの良い香りが漂って来た。
「ジョー、イタリアの人はどうしてエスプレッソが好きなの?」
「どうして、って…。考えた事もなかったな。
 子供の頃から当然のように飲んでいた」
「そうなの?」
「そんな事を疑問にも感じず、普通に飲んでた」
そう、お袋が淹れてくれたっけ……。
「ジョーの島って本土と3kmしか離れていないんでしょ?
 本土には行った事がなかったの?」
「行く機会がなかったなぁ。
 BC島は独立国家みたいになっていたし、マフィアが暗躍していた。
 恐らくあの頃、既にギャラクターに統治されていたんだろう」
「ごめんね。ジョーの兄貴。そんな事を思い出させるつもりじゃなかったんだ」
「別にいいのさ、甚平。もう吹っ切れた」
「そうでもないでしょ。こないだも兄貴が心配してた」
「余計なお世話だぜ。俺はそんなにメンタルが弱くねぇ!」
ジョーの声が大きくなったので、甚平は逆に縮み上がった。
「ごめんよ、ジョー」
「いや、すまねぇ。俺もでかい声を出しちまった」
甚平が出したエスプレッソは故郷の味がした。
それはジュンが気を遣って、ジョーの故郷のコーヒー豆を仕入れて来るからだ。
仕入先で偶然見つけたらしい。
それからはジュンはこれを切らした事がない。

ジョーが居なくなってからは店にエスプレッソの香りがする事も殆ど無くなった。
他の客は余り注文しなかったからである。
たまにラテン系の客がやって来て、注文する事はあったが、この香りはジョーを思い出させる。
明るいラテン系の男達に、ジョーの思い出を壊されるような気がして、ジュンは客が帰るとすぐに食器を片付けた。
そんな日が続いていたある日、健がエスプレッソを淹れてくれ、と言った。
「今日はジョーの月命日だ。
 四十九日も過ぎて、この辺りをうろうろしている事もないかもしれないが、何となく飲ませてやりたい気がする」
「そうね。解ったわ…」
ジュンがコーヒーミルで豆を挽いて、甚平がエスプレッソを丁寧に淹れた。
「ジョーはこの待っている間の香りも好きだったわね」
ジュンがしんみりとした声で呟いた。
コーヒーが入るとカウンターに置かれた。
ジュンは店のコーヒー豆が並ぶ場所の、エスプレッソの脇にさり気なく置かれているジョーの写真立てを取り出し、その前に置いた。
この写真は全員が持っている。
南部博士が焼き増ししてくれたものだ。
写真嫌いだったジョーが、珍しく笑顔で写っていた。
「これはテレサ婆さんの誕生日を祝った時の写真だ…」
写真が配られた時、健が説明した。
「ジョーの兄貴がこの香りが好きだったのは、きっとママが淹れてくれたからだと思うよ。
 おいらには気を遣って親の事は何も言わなかったけどさ。
 何となく解るんだ、おいら……。
 子供の頃から当たり前に飲んでた、って言ってた。
 それは家で、って事でしょ?」
「そうね…。普通はそうだと思うわ。
 ジョーのお母さんがどんな方だったかは私達には解らないけれど、きっと優しい方だったと思う」
「そう思うと、ジョーはマザコンだったのかもしれんのう」
竜が言った。
「健はファザコンじゃったが、ジョーは母親を求めていたような気がするわい。
 だから、同じ年代の女性には興味が無かったのかもしれんのう…」
「ジュン、俺達にもエスプレッソを淹れてくれ。
 ジョーと一緒に飲みたくなった」
「いいわ。月命日にはみんなでエスプレッソを飲む事にしましょうよ」
ジュンは早速取り掛かった。
ジュンと甚平はいそいそとエスプレッソを淹れた。
ジョーのエスプレッソも温かい物に交換した。
「ジョーの香りって感じがするわね」
「ジョーの兄貴が来ているような気がするよ。
 ジョーが来た時はいつも店にこの香りが充満してた」
「今でもレースで優勝して受け取った大きな花束を持って、ひょいと入って来るような気がするわね」
ジュンがカウンターの上に吊るしているドライフラワーを見上げた。
「ジュン、これはジョーが最後に持って来た花束か?」
健が訊ねた。
「そうよ。捨てるには忍びなくて…。
 どんなに小さなジョーの思い出でも取っておきたくて……」
ジュンはふと涙を拭いた。
「四十九日も終わって、2回目の月命日か…。
 早いものだな。
 ジュン、後で店を空けられるか?」
「いいわよ。ジョーのお墓参りに行くと言うのでしょう?」
ジョーは四十九日前に納骨されていた。
とは言っても骨は拾えなかったから、故人に所縁の物が入っているだけである。
でも、そこに刻まれた名前だけでも、その場所にジョーがいると思わせてくれた。
「竜、さっきジョーが同年代の女性に興味がなかった、と言っていたけど、マリーンさんはそう言う存在だったのではなくて?」
ジュンがふと遠い眼をした。
「まだ恋は芽生えていなかったのでしょうけど、天国で2人が結ばれていたらいいわね。
 そうだったら素敵だと思わない?
 写真で見ただけでもお似合いだったもの」
「マリーンはジョーに惚れていたらしい、って、あのフランツさんが言っていたな」
健もポツリと呟いた。
「ジョーはどうだったのかは解らんが、任務がなければ恋愛に発展していたかもしれないな。
 その矢先に彼女が事故で亡くなったって事なんだろう」
「添い遂げさせて上げたかった気がするわね。
 2人とも生きていれば、今頃揃って此処に座っていたかも?」
「ジュン…。もう考えても仕方のない事だ。
 天国と言う場所があるのなら、そこで2人はまた出逢っているに違いないさ」
「そうね。そうなってくれている事を祈るわ。
 さあ、みんな飲み終わった?
 片付けたら、ジョーのお墓に行きましょう」
ジュンと甚平は手際良く食器を片付け始めた。

ジョーの墓は博士の別荘の一角にあった。
4人が花を持って駆けつけると、先客が蹲っていたので、気配を消して脚を止めた。
南部博士だった。
博士は膝を着き、両手をジョーの四角く平らな形の墓石の上に乗せている。
「ジョー。私は君の病気に気付いてやれなかった…。
 すまなかったね…。
 私は自分で自分を許せんのだよ。
 2ヶ月経っても何も解決しない。
 君を失った重さがどんどん身に堪えて来るばかりだよ」
4人は何時の間にか手近な樹の上にジャンプしていた。
太い幹に2人ずつ座って、涙をふと零した。
「博士は我々の前では涙を見せないが、もしかしたら今、泣いているのかもしれないな…」
健が述懐した。
「ジョーに病気を隠された事については、博士も悔しいだろうからのう…」
「そうよ、ジョーの一番近くにいた『医師』なんですもの」
「そっかぁ。でも博士はカッツェの正体の研究に夢中になっていたもんな」
「間が悪かったのさ。全ての事が。
 今更、誰も責められない。
 ジョーが『どうせ死ぬのなら』、と腹を括った気持ちも解る気がして来たよ」
「健……」
「きっと、俺でもああしていただろうと思うから…」
その時、甚平が樹の幹に挟んであった花束がバサリと落ちた。
博士が顔を上げて、振り返った。
その頬に涙はなかった。
「諸君、そんな処で何をしているのかね?
 降りて来なさい」
全員が仕方なく降りた。
花束は幸い傷んでいなかった。
墓の前に行くと、博士が供えたばかりの花が綺麗に飾られていた。
墓自体も、別荘の職員が季節の花を楽しめるようにと周囲に花を植えていたから、賑やかだった。
「その花、供えて上げなさい」
博士は静かに言った。
ジュンは花束を飾り、そして自分が肩に背負っていた水筒からエスプレッソをカップに入れて墓の前に供えた。
「ジョー、少し冷めちゃったけど、貴方の好きだったエスプレッソよ」
ジュンはまた涙を拭いた。
博士はそれを見て微笑んだ。
「ジョーは、小さい頃からエスプレッソを頻繁に飲む習慣があってね。
 テレサも良く準備していたものだ。
 どうやらBC島にいた頃からそうだったらしい…」
「イタリア人にはエスプレッソ好きが多いですからね。
 ジョーのご両親も例外ではなかったに違いありません。
 きっとこの香りで郷里を思い出すんでしょう……」
健は辛さを堪えて前を見た。
ジョーの墓はもう何も言わない。
花の中に静かに佇んでいた。
「病気で仕方がなかったとは言え、私達と一緒に平和を噛み締めて欲しかった…。
 ジョー、今ならレースに没頭出来たのよ。
 貴方ならきっと世界的レーサーに……」
ジュンの言葉はまた涙で途切れた。
「ジュン、泣いてばかりいるとジョーにどやされるぜ」
本当はどんな気持ちで此処にいるんだろう。
そう思わせる健が、ジュンを慰めた。
一番傷ついているのは、健の筈だった。
ジョーを置いて行く決断をした事は、彼に一生涯の傷を遺した。
見回すと花束、アルコール(ジョーは未成年だが)、果物や饅頭などのお供えで墓の周りは一杯になっていた。
「此処の従業員達も、ジョーの事が好きだったようだな。
 私が来たら既にこうなっていた」
博士はにっこりと笑った。
エスプレッソの香りが鼻を擽った。
「良い香りだ…」
博士が呟いた。
「冷めていますけど、博士も一杯召し上がりますか?
 私達は店で飲んで来ましたから」
ジュンはそう言って、ジョーに供えたエスプレッソを手にした。
「ジョーも充分に堪能したからもういいわね?」
ジュンはその中身を少し離れた場所に行って捨てて来て、博士に新しいエスプレッソを入れた。
「ありがとう…」
「博士、ジョーの香りですわ」
南部博士は味わって飲んだ。
涙を堪えているのが解る。
ふと、横を向いて誤魔化しているのだと彼らも理解した。
絶対に『諸君』には涙を見せないのだ。
意地を張っているのかもしれない。
「ありがとう、ジュン。美味しかったよ…」
博士は水筒のカップを返して来た。
「……ジョーの、香りがした」
最後にそう呟いて、博士は背を向けて、別荘の建物へとゆっくり戻って行った。




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