『灯火』

「生きていられるのになぜ死のうとする!?」
女性は靴を脱ぎ捨て、遺書を置いていた。
ジョーが後ろから羽交い締めにしなかったらビルから飛び降りていただろう。
ジョーは女性の様子に気づき、生身でエアガンのワイヤーを使いながらビルを渡り歩いて、駆けつけたのだ。
ISOの近くのビルの屋上で風景を見ていた事が、事の助けになった。
彼女は周辺のビルをいくつも飛び移って現われたジョーに驚いていた。
「生きたいのに生きられない奴の事を考えた事があるか?!
 考えたら死ぬなんて出来る筈がねぇっ!」
ジョーは「止めないで!」と騒ぐ30代ぐらいの女性にいきなり、平手打ちを喰らわせた。
「生きようと思ったら生きられるのに、何故生命を粗末にする?」
その頃、ジョーは自分の不調を深く理解していた。
だからこそ言える台詞だった。
「もうこうするしかないのよ」
「どんな事情にしても、死んでいい訳がねぇ。
 親から貰った生命を粗末にしていいって道理はねぇっ」
ジョーは必死に止めようとしたが、彼には上手く説得出来るだけの語彙がなかった。
こんな時、健なら上手く止めるのだろうか?
ジョーは女性の前で胡座を掻いて座った。
女性はまだ金網の前に立ったままだ。
「俺はもう長くは生きられねぇらしい…。
 だからよ。余計なお世話かもしれねぇが、黙って見過ごせねぇんだ…」
女性の心が少し動いた。
ジョーはこんな話をするつもりはなかったのだが、行き掛かり上、仕方がなかった。
「貴方、まだ10代でしょ?」
女性が話に喰いついて来た。
ジョーはいいぞ、と思った。
「そうさ。でも先は長くねぇ」
「あんなに敏捷に動いていたじゃない」
「いつまで出来るかな?」
ジョーの瞳に暗い影が差したのを女性は見た。
彼女はジョーが言っている事が本当だと言う事に気づいたのだ。
金網に掛けていた手を外した。
「そんな貴方が私を止めに来てくれたと言う訳?」
「死のうとしている人間を黙って見過ごせるかよ?」
「放って置いてくれたら良かったのに」
「それなら言うがな。この高さから飛び降りたら、あんたはグチャグチャになるぜ。
 それからな。通行人を巻き込んで死なせてしまうかもしれねぇ。
 片付ける人間の身にもなれ。
 巻き込まれて死ぬ人間の身にもなれ。
 突然死んだ人間はな。汚ねぇ話だが、糞尿を垂れ流すって言うぞ。
 あんたの遺体は決して美しくはねぇ。
 それを想像してから死んでみろ」
女性は少し恐れ戦いた。
金網から離れるかのように座り込んでしまった。
ジョーはしめた、と思った。
まずは座り込ませてしまえば、後は衝動的に立ち上がって飛び降りないかを監視すればいい。
「死ぬんだったら、家でおむつをして首を吊るんだな」
ジョーは敢えて冷たい事を言い放った。
それはかなり効いている筈だった。
「その家から逃げて来たのよ。もう帰るのが嫌なのよ」
ジョーは女性の手首を見た。
リストカットの跡が何本もあるが、全て躊躇い傷だ。
「あんたの傷は躊躇い傷だ。本当は死ぬ勇気すらねぇ」
ジョーはキツく断罪した。
此処は優しく接しても仕方がないと思ったのだ。
「まだあんたにも生命の灯火が灯っている筈だ。
 俺にもまだ僅かだがそれがある。
 俺はそれを消さねぇように必死で燃やし続けようと努力をしている。
 それなのに自分から灯火を消そうとするなんて、馬鹿がする事だ」
ジョーの語調は相変わらずキツイ。
だが、女性は黙って聴いていた。
「大方家族と何かあったんだろうが、帰りたくねぇ程辛いのなら、帰るな。
 それでも生きろ。生きて活路を見い出せ。
 あんた、家族がいるんだろ?
 俺には8つの時から両親はいねぇ。兄弟もいねぇ。
 家族がいるだけでも有り難味を知れ!」
ジョーは熱くなって自分の膝を叩いた。
「子供はいないわ。どうしようもない夫が待っているだけ」
「嫌なら実家にでも帰れ」
「実家の両親はもういないわ」
「それならホテルにでも行け。金が不足するのなら、旦那に言って貰えばいい。
 だが、その服装からして、あんたはキャリアウーマンだろ?
 少しの金ぐれぇには困らねぇだろうよ」
女性はこの正体不明の江戸っ子言葉を使うイタリア人が、意外ときちんと物事の本質を見ている事を知った。
「頭を冷やす時間が必要なんだ。死のうと思っていた事が馬鹿らしくなる時が来る。
 それまで別居しろ。俺が言う事じゃねぇだろうが、あんたに眼の前で死なれちゃ、適わねぇからな」
『ジョー、どこにいる?そろそろ帰るのだが』
南部博士の声がブレスレットから流れた。
「すみません。自殺願望の女性を説得しているので、少し時間を下さい」
『何だと?警察を呼ばなくて大丈夫なのか?』
「多分、もう大丈夫ですよ」
ジョーは自信有りげに答えた。
「俺と話して少しは気が晴れたかい?」
ジョーは通信を終えて、女性に訊いた。
「そうね…。少なくとも此処で死のうと言う気はなくなったわ。
 死体の惨状をあれだけ聞かされたら、引いたわ」
「でも、事実は事実さ。
 人は突然に死を迎えるとそうなるのさ。
 だからどうしても死にてぇのならおむつを付けろと言ったのさ。
 嘘じゃねぇぜ」
「もう、解ったわ。その話はもういい」
女性はタイトスカートの膝に着いたゴミを手で払った。
「貴方と飲みに行きたいけど、未成年だったわね。
 それにどなたかを迎えに行くようだし…」
「悪りぃな。そう言う事だ」
「帰るわ」
女性は突然キッパリと言った。
「え?」
ジョーは呆けたように女性の顔を見てしまった。
そこそこの美人だと初めて気づいた。
「とんでもない夫に離婚届を突きつけにね。
 貴方のお陰でその勇気が出来た。
 有難う、坊や」
女性はジョーの頬にキスをした。
そして、ジョーが呆然としている間に荷物を纏めて屋上から降りて行ってしまった。
「何だありゃ?」
ジョーはそう言って呆然としてから、暫くして笑い始めた。
もうあの女性は自殺など考えないだろう。
そう気づいたのだ。
「はっ!しまった!南部博士を待たせていたのだった!」
ジョーは慌てて博士に連絡を取った。
「今すぐにISOビルに戻りますので」
『いや、いい。ロジャースを呼んだ。
 で、自殺願望の女はどうしたね?』
「有難う、坊や、と言って帰って行きました……」
『ははははは!坊やは良かったな』
南部博士の傍からロジャースの笑い声まで聴こえて来る。
しまった!言わなければ良かった。
ジョーは後悔した。
だが、後悔先に立たず、だ。
『もう自殺の心配はないんだな?』
「帰って夫に離婚届を突きつけると言っていましたから、大丈夫でしょうよ」
『それはご苦労だったな、ジョー』
博士の声は優しさに満ちていた。
『今日は帰ってゆっくり休みたまえ』
「全く何と言う1日だったんでしょう」
『まあ、人の生命を救ったのだ。そうぼやく事はない』
博士の通信はそこで切れた。
ジョーは漸く立ち上がって、ジーンズの尻に着いたゴミを払った。
コンクリートなのでそれ程汚れてはいなかった。
「あの女(ひと)、本当に大丈夫かな…?」
そう呟いてから、自分の掌を見つめた。
大丈夫、ぶれていない。
眩暈や頭痛は起こっていない。
ジョーは軽々と階段を降りた。




inserted by FC2 system