『腐食ウイルス(後編)』

健達はジョーの体力を信じていたが、交替で病室の前に待機する事にした。
病室の中でジョーはまだ高熱と闘っていた。
全身は弛緩し、呼吸も苦しげだ。
バイタルが安定して来たと思うと、突如数値が異常になったり、と言った事を繰り返している。
南部博士が「此処2〜3日が山だ」と言ったのは本当だったのである。
鼠径部を繰り返し保冷剤で冷やし、熱を下げる為の薬剤も、ウイルス抗体と別に点滴されていた。
その血管が膨れ上がったりする事があり、ウイルスと闘っているのだと言う事が眼に見えて解った。
ジョーの容態は決して良くはなかった。
夜半になって、ジョーが肩を上下させて苦しげにしていたので、看護師が助手の医師の許可を得て、頭の下に枕を足した時だった。
突然、「ぐふっ!」と声を立てて、ジョーは鮮血を喀いた。
真っ白いシーツや枕が真っ赤に染まった。
看護師が慌てて、酸素マスクを外す。
「落ち着いて!血が喉に詰まらないように、身体を側臥位に!」
博士の助手を務める医師はかなり優秀な医師だった。
博士も彼に任せて、今はこの場を離れている。
「南部博士を呼んで!」
助手はそう言うと、ジョーがまだ喀くかもしれないと、手袋をした手で清潔なタオルを口元に宛てがった。
ジョーは痛々しく何度も血を喀いた。
「肺をやられている。当然予期出来る事だった…。
 他の臓腑もやられているかもしれない……」
助手が呟いた。
「血液が着いたシーツやタオルは全て焼却処分する事!
 準備を進めて!」
毛細血管まで侵食したウイルスは、ジョーの身体中で悪さを始めているのだ。
南部博士が血相を変えて、病室に飛び込んだのを見たジュンはすぐにブレスレットで全員に連絡を取った。
「みんな!ジョーに……、ジョーに……異変が現われたみたいなの……」
ジュンは動揺していた。
『解った!すぐに行くから落ち着くんだ、ジュン』
健の声がした。
南部博士の様子が只事ではなかっただけに、ジュンは生きた心地がしなかった。
病室の前のソファーで両手を組み、神にジョーの無事を祈った。
健達は本当にすぐにやって来た。
各自、自宅に帰っていた訳ではなかったようだ。
基地内の仮眠室に待機していたのだ。
「博士が…、あのいつも冷静な博士が…、血相を変えていたわ……」
ジュンが震える声で言った。
輸血の準備をするべく、看護師が外から金属製のカートを押してやって来た。
すぐに輸血が始まった。
ジョーの体内の血液を全部取り替えるぐらいの事をしないと危険だと、南部博士が判断したのだ。
「輸血?どこからか出血しているって事か?」
健が呟いた。
「危険なので、血液を入れ替えるのかも?」
「でも、それなら人工透析をするんじゃないだろうか?」
健とジュンの会話が続いた。
「じゃあ、やっぱり出血…?血を喀いた…?」
ジュンの声がまた震えた。
「毛細血管まで潜り込むウイルスなら、臓器をやられている可能性はある…」
健が苦悶の表情でそう言った。
「ジョーの兄貴、死んじゃうの?」
「馬鹿たれ。冗談でもそんな事言うんじゃないわい」
健達は成す術もなく、ただ病室の外で祈るしかなかった。
看護師がカートに載せて来た、袋に詰められたシーツが真っ赤に染まっていた。
とても正視する勇気はなかった…。

ジョーは激しく血を喀いた後、それで意識が呼び戻されたのか弱々しく眼を見開いた。
「ジョー、私が見えるかね?」
南部の問い掛けに全く反応しない。
口は利けないだろうが、ジョーなら眼で合図するとか何やらして来る筈だ。
それがない……。
南部博士もこの事態を憂慮していたのだが、本当にそれが現実になってしまった。
ジョーの瞳はまた閉じられた。
「バイタルが急激に下がっています!」
「強心剤の濃度を増やすんだ。彼なら耐えられる筈だ」
南部は立ち上がって指示をした。
また点滴が取り替えられた。
反対側の腕から輸血がなされている。
どうやら喀血は収まったようで、真っ白な清潔なシーツと枕の上で、ジョーは胸を上下させていた。
「ジョー、済まない。私を守る為に……」
南部はジョーの手をそっと握り締めた。
その時、ジョーの手がピクリと動いた。
「ジョー!」
「うっ……」
まだバイタルは満足な数値まで上がって来ていない。
しかし、再びジョーは眼を見開いた。
博士は今度は彼の瞳に少し力がある事を見抜いた。
「ジョー。喋っては行かん。大丈夫なのなら、私の手を握ってくれたまえ」
ジョーはその言葉に弱々しい力で南部の手を握り返した。
「解った。ゆっくり休むがいい。私が必ず君を助ける」
南部はジョーに優しく声を掛けると、ウイルス抗体の残量を見て、再び薬の精製に入った。
ジョーは微かな意識の中で、8歳の頃の事を思い出していた。
この手に…助けられたような気がする。
南部博士に引き取られた経緯は詳しくは知らなかったが、BC島から自分を連れて出たのは、南部に違いない。
その事は解っていた。
病院で過ごす日々、眠っている時にこの手が自分の小さな手を握り締めてくれた事があった。
そんな断片的な事を、ジョーは思い出していたのだ。
そのまま意識をまた攫われてしまったが、南部は奇跡を信じていた。
精製の出来た薬物を看護師に点滴パックに移させ、南部はまたジョーの傍に来た。
「大丈夫。様々な危険を掻い潜り続けて来た君なら、絶対に助かる」
南部は恐らくは声が届いていないだろうと思いつつも、ジョーにそう声を掛けた。
意識を喪失していても、最後まで残るのは聴覚だ。
励ましの言葉が届いていないとは限らない。
南部は意を決して、外の4人を呼ぶ事にした。
「表の4人を中に入れてくれたまえ。勿論、防御衣とマスク、手袋をさせるように」
「解りました」
看護師が答え、動いた。
やがて健達が仰々しい姿で病室に現われた。
「ジョー!」
4人は口々に叫んだ。
「声を掛けてやってくれ。励ましの言葉を」
南部の言葉に彼らはジョーに声を掛け始めた。
「ジョー。まだ走るんだろう?サーキットで爽快な空を眺めるんだろう?
 海辺に行って、夕陽を見るんだろう?
 まだ逝っては駄目だ。
 そんな事は俺が許さない!」
健が最後は叫ぶように言った。
「ジョー。頑張って生きて!貴方にはまだやる事がある筈よ。
 『あいつら』に一泡吹かせるまで貴方は死ねない筈だわ」
「ジョーの兄貴、お姉ちゃんの言った通りだよ。
 ジョーがやらなきゃ、意味がないじゃん」
「そうだわい。ジョー、生きるんじゃ!」
彼らの声が聴こえたかのように、ジョーの長い睫毛が揺らいだ。
「ジョー!」
健がジョーの手を握り締めた。
まだ熱い。
熱が下がっていないのだが、バイタルが微妙に変化を見せ始めた。
彼らの声が伝わっているのかもしれない。
「バイタル、安定しつつあります」
「呼吸も少し落ち着いて来ました」
ジョーの身体に良い変化が出て来た。
看護師が頭の保冷剤を替えた時、ジョーはうっすらとその瞳を見開いた。
「ジョー……」
健はその手を握り締める力を強めた。
ジョーはそれを握り返して来た。
まだ力はないが、意思の疎通が出来ていると言う証拠だった。

「ジョーはまだ山を完全に超えた訳ではない。
 だが、きっと乗り越えてくれると信じている」
ジョーの病状が一旦落ち着いた処で病室の外に出て、南部博士はそう言った。
「まだこのような危機が全く起こらないと言う保証はないが、私もジョーとともに闘う」
「博士…。宜しくお願いします」
「私の為に受傷したのだ。
 絶対にジョーの生命は守ってやらねばならん。
 それだけの事だ。
 必ず元通りの身体にして科学忍者隊にも復帰して貰うから、皆も心配せずに少し休みたまえ」
「それは博士も同じです」
健が言った。
「大丈夫だ。仮眠は取っている」
博士はそれだけ言うと、4人に背を向けた。
4人はその少し窶れた背中を黙って見送った。
ジョーが自分の為に傷を負って、苦しんでいる事で、博士自身も自分を責め苛んだ事だろう。
「でも、それは科学忍者隊の任務なんです」
健がその背中に向かって呟いた。




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