『木々の囁き』

『スナック・ジュン』では珍しく若者が集って、ゴーゴー大会が開催されていた。
ジョーには居心地が良くなかった。
ジュンや甚平から踊るように勧められるのだが、彼は1度もカウンター席を離れなかった。
「とても踊る気にはならねぇや」
ジョーはカウンターに代金を置いて、黙って立ち去った。
さて、どこに行こう?
今日はサーキットのメンテナンス日に当たっていて、行く処がない。
良い天気だ。
G−2号機とドライブにでも行くか?
『スナック・ジュン』の駐車スペースに戻ると、丁度健がバイクでやって来た処だった。
「おう。今日はゴーゴー大会で、騒がしいぜ。
 食事だけにしておいて、さっさと出て来た方が身の為だぜ」
「それでジョーも逃げ出して来たって訳か?」
健は笑った。
「この騒音を聴けば誰だって解るさ」
「そりゃあ、ご尤もだな」
ジョーは隣の部屋を見やった。
「とにかく俺はもう脱出した。消えるのみさ」
「やれやれ、じゃあ、空いたカウンターで何か食べて俺も飛びに行くかな?」
「いいな。いつでも飛べる奴は。
 今日はサーキットがメンテ日でよ」
「そうか。残念だな」
「夕陽でも見に行くとするさ」
「いいじゃないか?どこに行く?」
「まだ決めてねぇ。それを訊いてどうする?」
「俺もバイクで後から行こうかな、と思っただけさ」
「男同士で夕陽もねぇだろう」
「それもそうだな」
「じゃあな」
ジョーは颯爽とG−2号機に乗り込み、エンジンを吹かした。
健も「じゃあな」と隣の騒がしいスペースに消えて行く。
ドアを開けたので、その騒がしさが一瞬喧(かまびす)しくなった。
「さて、どこに行くか?」
ジョーは腕を組んだ。
少々考えて、海が見える丘の上に決めた。
一旦いつもの森に戻って、トレーラーハウスを牽引して行こうと思った。
一晩そこで過ごすのもいいだろう。
今日はパトロールの命令もない。
ギャラクターが出て来ない限りは、貴重な休暇として1日を過ごせる。
こんな日にサーキットに行けないのは勿体なかったが、仕方がない。
いつもの森は、緑が鬱蒼と繁っている。
今、一番盛りの時なのだろう。
手入れをする者がいない自然の森であるから、伸び過ぎた木はそのまま自由自在に好き勝手な方向に走っている。
緑が匂うようだ。
少し雨が降ったらしく、水の玉が葉の上に溜まって、綺麗だ。
雫がひと欠片、ポタリと落ちて行く。
その音が聴こえるかのようだった。
G−2号機をトレーラーハウスの前に停めて、ジョーは暫くそれを見ていた。
緑が呼吸しているかのようだ。
雨が降った後の湿気が、晴れた空に立ち上(のぼ)って行く。
地面は軽く濡れていたが、ジョーは爽やかな空気を感じ取った。
「雨上がりの森ってのも悪くねぇな」
今日は移動をするのをやめよう、と思った。
此処にいても夕陽は見る事が出来る。
いつも吊ってあるハンモックは雨に濡れてしまっているが、この天気なら夕方までには乾く事だろう。
とにかく何か飲もうと思って、トレーラーハウスに入った。
先程、『スナック・ジュン』でコーヒーを飲んだばかりだが、何かフレッシュな物が飲みたくなった。
ジョーはサイドボードの上からオレンジを手に取った。
シンクの上にある作り付けの棚から、レモン絞りを取り出し、ナイフで2つに割ったオレンジを絞った。
それを口の広いコップに少しずつ移し替えて行く。
新鮮なオレンジの香りが部屋中に広がった。
オレンジジュースはいつもこうして飲む事にしている。
この香りが堪らなく良いからだ。
パックに入っているオレンジジュースを飲むのなら、果物としてのオレンジを買って来るのが常だった。
手を掛けてでも、この香りを味わいたい。
部屋に芳香剤を撒いたような良い香りが行き渡った。
ジョーは椅子に座って、透明なグラスを手に取った。
少し濁ったオレンジ色の液体が中で揺れている。
一口ずつゆっくりと味わった。
旨い、と思った。
贅沢な時間だ。
食後のコーヒーもそこそこに店を出て来てしまったので、何となくホッとするものがあった。
芳醇な味が口の中に広がった。
開けっ放しのドアの外は見事に晴れ上がっている。
この調子だとすぐにハンモックが乾き上がる事だろう。
シンクで飲み終わったコップを洗って、ジョーはトレーラーハウスの外に出た。
ハンモックに触れてみる。
「もう乾いているな」
ジョーは軽々と飛び乗った。
いつも森の緑に切り取られた空を見つめるのだが、今日はその範囲が狭いような気がする。
木々が育っているのだ。
しかし、自然は不思議なもので、知らない内に淘汰されて、またスッキリした空に戻っている。
手入れをする者がいなくても、ちゃんと自分で手入れを行なうのだ。
ジョーは森で暮らしているせいか、その事を知っている。
木々がさわさわと揺れた。
大した風ではないのだが、爽やかな気分になる。
木が友達と囁き合っているかのように見える。
葉っぱ同士が触れ合って、何か会話しているように聴こえるのだ。
ジョーはハンモックの上に寝そべって、眼を閉じてそれを聴いていた。
ともすれば寝入ってしまいそうだった。
木々の会話が子守唄のように心地好いのだ。
「夕陽を見る為に此処に戻ったんだぜ。
 俺を寝かせようとするなよ」
ジョーは独り言を言った。
それでも木々はワルツを奏でていた。
夕陽が翳り始めるまで、ジョーはその音に耳を傾けていた。
眠ってしまわないように、時々羽根手裏剣の訓練をした。
木々の上には彼の手製の板がぶら下がっているのだ。
夕焼け空が広がって来ると、ジョーはそれに集中した。
夕陽のパノラマショーを見ながら、今日は無事に終わりそうだな、と思った。
さっき飲んだオレンジジュースを思わせる色が、空に広がっていた。
贅沢な1日を過ごしたと思う。
たまにはそう言った日があってもいいだろう。
いつも闘いの中に身を沈めているのだから。
「誰も贅沢だなんて言わねぇか…」
ジョーは声に出してみた。
その瞬間に夕陽の比率がコバルトブルーと入れ替わった。
「いい気持ちだ……」
ジョーはハンモックの上で手足を伸ばした。
そして、夕陽のパノラマショーが終わると、夕食の準備の為にハンモックを飛び降りた。
「パスタにでもしよう。
 昼もパスタだったが、まあ、いいか」
パスタの材料なら揃っている。
牛乳の賞味期限が迫っているので、クリームパスタでも作ろうと考えた。
そうして、平和な1日の夜は更けて行った。




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