『博士の30分』

峠を越えると夕陽が沈み行く姿が見えて来た。
「博士。別荘に帰る前に少し寄り道をしても大丈夫ですか?」
「いや、帰ってこの論文を検討せねばならぬのだが……」
「これを見て下さい。博士にはこう言った景色を見る必要がありますよ」
南部博士はジョーの言葉に、公用車の窓の外に初めて眼をやった。
「ほお、美しいな……」
「でしょう?こんな風景をゆっくり見た事なんてないのでは?」
「そうだな。最近は全くないと言ってもいい」
「少し…。30分でもいいですから。どうですか?」
「うむ、ジョーの心遣いに免じてそうする事にしよう」
「そいつは良かった」
ジョーは高台に公用車を停めた。
自分だけ車を降りて、周囲に気を配る。
こんな時にもそのような事をしなければならないとは、何とも窮屈な事だ。
だが、仕方がなかった。
「博士、降りても大丈夫ですよ」
ジョーはドアを開けて博士を誘(いざな)った。
「どうです?夕陽がまるでオレンジ色の絵の具を刷毛で履いたようでしょう?」
「うむ。刻々と色が変わって行くのを眺めるのは、若い時以来かもしれん」
「世の中にはこんなに美しい物があるんですよ。
 博士は忙しさにかまけてこう言ったものに眼が行かない生活をされているでしょう。
 だから、今日は丁度良く陽が翳って来たんで、誘ってみたんです」
「成る程、ジョーがこんなに自然を愛しているとは知らなかったな。
 そう言えば、別荘には君が作った花壇がまだ元気に生きている」
「花を育てるのは好きでした。独立してしまって、放置状態にしていたのが気になっていたのですが……。
 別荘の誰かが手を焼いてくれているんですね」
「テレサだよ」
南部博士が別荘の賄い婦の名を上げた。
ジョーの事を本当の孫のように可愛がってくれていた今年80歳になる老婆だった。
「やはりそうでしたか。もう腰も曲がっているのに……」
ジョーは少し込み上げて来る物を感じて、目尻に浮かんだものを腕で拭かなければならなかった。
「今日は別荘に寄って行って、テレサの手料理を食べて行くといい。
 それが一番テレサを喜ばせる事だ」
「そうですね。今日はそうさせて貰おうと思います。
 お礼も兼ねてそうします」
「それがいい」
南部はそう言って、背中を伸ばした。
いつでもこの人は姿勢が良い。
「こうして夕陽が沈んで行くのを眺めるのは贅沢なものだな」
「俺はその贅沢を年中しているんですよ。博士に少しは分けたいと思いましてね」
「有難う、ジョー。その気持ちは有難い事だ。
 私のように忙しくしていると、無公害都市を作る事に熱中しながらも、自分は自然と向き合う時間がない、と言う矛盾が生じて来る。
 こんな経験をするのも、良い事だ。
 この森もそうだ。私はこんな森でゆっくり森林浴などした事もない。
 車で森林の中を走ったとしても、いつも書類に眼を通していて、外の景色など見た事がない」
「そう思ったから、今日は寄り道をしようと思ったんですよ」
「ジョーの気遣いに感謝だな。普通の運転手ならこうは行かない」
「そりゃあ、そうでしょう。仕事として、博士を無事に送り届ける事だけが彼らの職務ですから」
「そうだな……」
夕陽が沈んで来た。
少しずつコバルトブルーが混じり合い、美しい色のコラボレーションが起こった。
「博士、30分が過ぎてしまいましたが、どうしますか?」
「うむ、もう少し見て行こう」
博士のその言葉に、ジョーは満足げに笑った。
「此処は星も美しいんですよ。博士の時間に限りがなかったら、夜空の星もお見せしたいぐらいです」
「そうかね?それは残念だな」
「夕陽が沈み切りましたね」
ジョーは言葉少なに答えた。
空にはあれ程オレンジ色のグラデーションがあったのに、何時の間にかコバルトブルーに変わり切っていた。
「そろそろ帰るとしますか。お忙しいでしょうし」
「うむ、そうしてくれたまえ」
ジョーは公用車のドアを開いて、南部博士を車に乗せた。
「たまには時間を作って、俺達に付き合って下さいよ。
 国際科学技術庁での付き合いもあるでしょうが、俺達とこう言った風景を眺めるだけでも、きっといい気分転換になりますよ」
「そうだな。確かに今日は良い気分転換になった。
 この後持ち帰る仕事も逆に捗るかもしれん」
「そいつは良かったです。博士」
ジョーは破顔一笑した。
「では、別荘に向かいます」
ジョーは公用車をスタートさせた。
「博士、良かったら窓越しにでも、空を見上げて下さい。
 この都市にはこんなに星が瞬いていたんだ、ときっと驚く事でしょうよ」
「ユートランドも無公害都市だからね」
「俺などハンモックで夕陽のパノラマから夜空の星まで飽かずに眺めている事もあるぐらいです。
 願わくは博士にも週に1度ぐらいはそんな時間があるといいんですがね」
「残念ながら、それは無理な相談だ」
「解っていますよ。マントル計画推進室長の仕事だけでもオーバーワークなのに、ギャラクターを斃す為に、俺達の指揮まで執らなければならないのですから」
「ギャラクターを斃すまでは、本当のマントル計画は実行出来ないからね。
 計画を遂行しても、すぐに破壊されてしまう」
「本当です。俺達が事前にその情報を手に入れられればいいんですが……」
「その仕事はISOの情報部の仕事だよ、ジョー。
 諸君にそこまでして貰ったら、キリがないからね」
「ええ。それは解っているのですが、破壊されて行くのを見るのは悔しいですよ。
 何よりも博士とそのスタッフの落胆振りを考えると……」
「ジョー。科学忍者隊はそこまで考えなくても良いのだよ。
 それは私達の仕事だ。君達はギャラクターの野望を潰えさせる事だけを考えてくれればそれでいい」
「はい。そして、いつか奴らを叩き潰してやります。
 俺は夕陽を見て心を洗っては、毎回その決意を新たにしているんです。
 奴らの汚い行動には腸が煮えくり返っていますからね」
「ギャラクターは手段を選ばないからね。私も頭を悩ませる処だ」
「博士は頭脳戦、俺達は肉弾戦。それぞれの役割を果たして行くしかないようですね」
「そう言う事だな。私もあの夕陽を見て、これからの事について決意を新たにしたよ。
 ジョー、礼を言う」
「そんな、礼だなんてどうでもいいんですよ。
 ただ、博士の疲れた心が少しでも癒されれば……。
 俺はそう思っただけです」
「気を遣わせたね」
「何を言うんですか。俺にとっては博士は恩人ですから、それぐらいの事はやりますよ」
別荘に向かうくねくねとした道に入って来た。
此処をスピードを落とさずに走れるのはジョーだけだった。
公用車の運転手は、皆、この道に苦労していた。
確かにただの運転手には危険極まりない。
この道は切り立っているのだから。
ジョーだからこそ、夜でも走り抜けられるのだ。
夜目が利くし、何よりも動体視力と身体能力に優れている。
この事が当たり前じゃない事を、博士は良く知っていた。
「ジョー、テレサの手料理を食べたら、泊まって行ってはどうだ?」
「それでは、職員の人の手を煩わす事になるでしょう。
 俺はトレーラーハウスに戻りますよ。
 その方が気を遣わずに済みますからね」
「そうかね?ジョーも大人になったものだ」
「そうでしょうか。博士がそう言うのなら、多少はそうなったのかもしれませんね」
ジョーは車寄せに公用車を着けた。
「私は先に行って、テレサにジョーの食事も用意するように言っておく」
博士は先に入って行った。
ジョーは公用車を自分のG−2号機の横に停めると、慣れ親しんだ玄関を弾む足取りで入って行った。




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