『何かの始まり』

『スナックジュン』のカウンターでは、いつものメンバーが横に並んで座っていた。
竜の前には相変わらず、数皿のメニューが並んでいる。
「おめぇは痩せようって言う気が全くねぇのか?」
隣のジョーが呆れ顔で言った。
余り食欲が無いのか、眼の前にあるのはコーヒーとジェラートの透明な器のみ。
その向こう側の健の前にはナポリタンの皿があった。
「竜、その食欲を少しジョーに分けてやれ」
健が呟いた。
「どうしたんだ?ジョー。任務であれだけ働いた後なのに、そこまで食欲が無いとは。
 お前、体調でも悪いのか?」
隣から覗き込まれたジョーは普段なら鬱陶しい、と突っぱねる処だが、今日は大人しかった。
「おめぇ達は『あれ』を見ていねぇからな…」
今日の任務で、ジョーは惨たらしい被害者の姿を見た。
そんな事には慣れている筈だったのに、彼が眼にした数十体の遺体には筆舌に尽くし難い恐ろしい傷口がパックリと空いており、さすがのジョーも眼を背けてしまった。
普通の人間が見たら、吐き気を催すに違いない。
(とても健には正視出来ねぇだろうな…)
ジョーはカウンターの上で頭を抱えた。
恐ろしい様子が眼に焼き付いて離れなかった。
「くそぅ。ギャラクターめ、全く惨い事をしやがるぜ…」
「ジョーにしては珍しく繊細じゃのう」
「竜!」
ジュンがカウンターの中から嗜めた。
「ジョー、貴方は疲れてるのよ。
 この処、博士の護衛と任務が立て続けに続いていて、休みらしい休みが無かったじゃない。
 今日は早く帰ってゆっくり休んだ方がいいわ」
「そうだな…。ジョー、休養を取る事も俺達の重要な任務だぞ」
健がしかつめらしい表情になった。
「本当だ。ジョーの兄貴、顔色が良くないぞ」
甚平が心配そうな表情になった。
「テイクアウトで何か持ってくかい?特別に作って上げるよ」
「すまねぇが気持ちだけ有難く受け取っとくぜ」
ジョーは確かに疲弊していた。
ジュンの言うように立て続けに任務が続いていた事は確かだが、それは彼に限った事ではない。
南部博士の護衛も決して普段と変わる事はない。
確かに彼にはずっと気を張り詰めている必要があった。
だがその程度の事で自分が疲れていると言う事実の方がジョーには信じられない事であったし、情けなく思えた。
「ちっ、情けねぇな…」
つい口をついて言葉が出てしまった。
「ジョー、何を焦っている?任務を淡々とこなしていれば、いつか仇は取れる。
 お前も俺も、ギャラクターが親の仇なのは同じだろう?」
「いつか、って一体いつなんだ?」
ジョーは両掌でカウンターをドンと叩いた。
ジェラートの器の上のスプーンが金属音を立てて跳ね上がったのを見て、彼は我に返った。
「悪い…。やはり疲れてるみてぇだ。帰(けぇ)るぜ……」
小銭を置いて立ち上がる。
「ジョー!」
健の声が背中から聞こえたが、ジョーは振り返らなかった。

ジョーはまだ自分の身体の変調に気付いていなかった。
ただ、疲れているのだと思っていた。
この時、メディカルチェックを受けていれば後の彼の運命は違っていたかもしれない。
(俺は凄惨な場面を数多く見て来た。それなのにこんなに堪(こた)えるなんてお笑いもんだぜ…)
ガレージで愛機に乗り込むと、健が追い掛けて来た。
隣には彼のバイクがある。
「おめぇも帰るのか?」
「ああ」
健は華麗にバイクにまたがった。
「ジョー!」
健が何かを投げて寄越した。
キラリと光ったそれは、小さな金属製のピルケースだった。
「睡眠薬だ。親父が死んだ頃、眠れない夜が続いて博士にそれを処方して貰った事があってな…」
ジョーは健の言葉に眼を瞠った。
「おめぇ、そんな事があったのか…」
「ああ。俺だって情けない夜はあるさ。今夜はそれを飲んでさっさと眠ってしまえ。
 明日になったら、全て忘れていられるようにな」
じゃ、と手を振ると健が先にガレージを出た。
(健、ありがとよ…)
ジョーはフッと笑ってエンジンを吹かす。
(何か嫌な事の始まりじゃねぇ事を祈るぜ…)
心で呟いて、アクセルを踏み込んだ。




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